中学3年生の真琴ちゃん。お母さんはピアノの先生です。

幼稚園のころからピアノを始め、うちの教室に来て8年目になります。

今は反抗期真っ盛り。
八つ当たりの対象になっているお母さんのことを、実はすごく尊敬していて、お母さんを越えたい!というのが彼女の口癖です。

ある日のレッスンでの会話。

「すごくよく練習してるね~~~!今週はよく頑張った!」

真琴「はい!」

「先生も嬉しいなぁ!次は少しテンポを上げてみましょう」

その後も快調にレッスンは進み、来週の宿題や、もう少し注意するところなどをいつもよりもたくさん提案して、レッスンを終了しました。

とっても気持ちのいい楽しいレッスンでした。

レッスンの後でお母さんからの電話。

アルコバレーノでは中学生になると一人でレッスンを受けるようになるので、時々お母さんとはメールや電話で様子を報告しあっています。

真琴母「先生、今日いっぱいほめられたって真琴が言うんですけど、どこをどうほめられたか、具体的なことは全然覚えてなくて、口から出てきたのは来週の宿題とか注意された事ばかりです。

でも本人はどうしてもほめられたって言い張るんですけど、本当にちゃんと弾けていたんでしょうか?」

「すごく上手に弾けてたよ!今週はよく頑張ったんだね~~!」

真琴母「じゃあ、あれは本当だったんですね」

「本当だよ。しかも宿題もちゃんと覚えていて偉いじゃない?」

真琴母「確かにそうですけど・・・(汗)でも、本当に何も覚えてないんですよ」

「あ~~~、なんかそれ、わかる気がする・・・」

嬉しかったこと、楽しかったことってその時の幸福感や喜びは覚えているものの、喜んだり、笑ったりしたことで、その具体的な事実の記憶が、身体からすっと抜けて行っている経験ってないですか?

何か忘れたけどすごく笑った、とか、何か分からないけどすごく誉められたすごく嬉しかった、とか・・・。

だからどれだけほめられてもいくらでも受け入れられるし、いずれは泡と消えていくこの記憶を誰かに伝えたい、と思うんでしょうね。

しかも真琴ちゃんは、とにかくほめられることが大好きなタイプ!

『どこがどんなふうに』ということよりも「ほめられた」というざっくりとした事実だけで、十分幸せな気持ちになれるのです。

ここは、一緒に喜んであげたいですね!

半面、悔しかったこと、悲しかったこと、傷ついたことなど「されたこと、嫌だったこと」は、しっかり身体の中にとどまって覚えているものだと感じます。

辛い事は本人の意思に関係なく、心の奥底にとどまっている事だと思うので、周りがわざわざそれをほじくり出して、その傷口に辛子を塗るような事をしなくてもいいのかもしれません。

しかも、人によってはかなり執念深く覚えていて、何度も何度も繰り返して思い出して悶々としているので、もともとの辛い事実よりもこちらの方は膨れ上がっているかもしれません。

生徒たちの話を聞いていると、娘たちがよく私に言っていた事と重なります。

「もっと優しく話してほしい」

「すぐにキレる」

「声がうるさい」

「話が長い」

「全然ほめてくれない」

「先にあれこれ言われたらやる気がうせる」

「すぐに人と比べてものを言う」

「始まった時からもう怒っている。意味がわからない」

「自分も出来ない癖に、『どうして出来ないの?』と上から目線で責める」

などなど・・・・

母親の痛いところをしっかりと子どもたちは見ています。

そんな生徒たちの本音を聞きながら、

「ごめんごめん。お母さんたちは悔しいんだよ。

悔しい気持ちの持っていき場がなくてみんなに当たってるんだね。でもその母親の気持ち、すごくよくわかるんだなぁ~」

と母親代表として生徒たちに心から謝ります。私にも身に覚えがたくさんあるからです。

子どもたちの口からの不満の声、傷ついた思い出、嫌だった事は、ノンストップ、しかもエンドレスで出てきました。

逆に「どんな時に褒められる?嬉しかった事は?」と聞くと・・・・

なかなか返事が返ってこないのです。

「ほめられた事ないの?」と言う質問に「ない」と答える子はいないのですが、どんな事でほめられたかよく覚えていないのです。

さっきの嫌だったことの答えと比べたら、全然スピード感もテンションも違う(笑)

別の機会に、お母さん方に「子供をあまりほめない理由」をお聞きすると、

「あんまりほめすぎると図に乗る」

「ほめられた事しか覚えていない」

「態度が大きくなって困る」

「ほめる事が見つからない」

「ほめられることを期待している姿勢が嫌だ」

「ほめたらすべてが許されたと勘違いする」

というような答えが返ってきます。

上記の心配事のために、少しほめ言葉を出し惜しみしているのかもしれません。

でも子どもたちの反応を見ていると、子どもたちは図に乗るほどほめられたとも思っていないし、何の事でほめられたのかも忘れているのです。

たくさんほめどころを見つけて、ほめる、認めることで、これまでの悪態をお互いチャラにしてもらって(お母さんも!)、子どもには、ほめられるためにたくさん努力をしてもらったほうが良くないでしょうか?

嬉しい事は泡と消えるのです。

ほめられた事の詳細はほめられた側の人間はだいたい忘れるのです。

ならば愛情の大放出、ほめ言葉の嵐もありかな、と思うわけです。