ピアノ教室のあるある話
亮太君は聡明な男の子です。瞬発力と集中力に優れています。
飽きっぽくて同じことの反復はあまり興味がないので、彼に対する指導法は他の生徒たちとはちょっと違います。
「この練習を一日10分、毎日やってね」という言い方よりも、
「これが5回連続で出来たら終わりね!」と言った方が目が輝きます。
こちらからいくつかの練習方法を提案しても、あまり興味を示しませんが、
「どれが問題の指だと思う?」
「1分に何回くらい弾けたらいいかなぁ・・・」
「どの指をどの方向に鍛えたらいいと思う?」
というように質問を投げかけて、自分で答えを絞り出してもらうようにすると、脳が動き始めるようです。
亮太君は3月末にある全国大会で、大曲に挑戦しました。
今の亮太君の力では到底弾けないようなレベルの曲でしたが、逆に彼ならうまく弾けそうな部分も多くあり、一緒に頑張ってきました。
東京での本番前、最後のレッスンでのこと。
私は要点をいくつかに絞って、レッスンしました。
気になるところは他にもありましたが、ある意味捨てて、決めてほしいところだけを伝えました。
亮太君も持ち前の集中力で素晴らしい仕上がりになりました!
「すごくいい演奏ができたね!本番は一発勝負なので何があるか分からないけど、もうこんないい演奏を聞かせてもらったから先生は大満足!後はあまり気負わず、気持ちよく弾いておいで」
と言いました。
そして残りの時間は気になるところを練習してもらうことにして、私は亮太君のそばから離れました。
そこまでは良かったのですが、その後事件勃発です。
私が座っていた椅子にお母さんが座り、気になるところを練習させ始めました。
その部分は多岐にわたり、すでに亮太君がバッチリ弾けていたところもあれば、私が捨てていた部分もありました。
案の定、だんだん亮太君の機嫌が悪くなり、ぶっきらぼうな音になり、音が不快感を表していましたが、お母さんはそれでも心配でたまらないようでした。
その重い空気とイラついた音に耐えられなくなって、私は部屋の外に出ましたが、それでも親子の練習は続き、そのうち外にも聞こえるような親子げんかが始まりました。
とても一時間後に本番を迎える精神状態ではなくなってしまい、外で聴いている私の方が泣きたい気持ちになってきました。
たまらなくなって「ねぇねぇ、もうやめて会場に行こうよ」と声をかけて、私は亮太君と二人で会場に向かいました。
その道中で・・・
私「母親って厄介な生き物でね、とにかく色んなことが気になって仕方がないの。
お母さんはただただ心配で本番前に言っておかずにはいられなかったから、しつこく念押ししたんだと思う。
ごめんね、母親代表として先生が謝るから、お母さんの気持ち、わかってあげてね!」
亮太「はい」
私「お母さんは亮太君とは違って、『女の子の練習』をする人なんだよ。
先生はいつも亮太君には『女の子の練習はしないよ!』って言ってるでしょ?人にはそれぞれ得意な練習方法があるの。」
亮太「へ~?そうなんだ・・・」
私「お母さんはただ、最後の最後まで出来ているかの確認を亮太君としたかったんだよ。」
亮太「わかるけど・・・」
私「嫌だなぁとかうるさいなぁ、って思った気持ちを、今、身体の外に流せる?」
亮太「う~ん・・・、はい。多分出来ます」
私「素晴らしい!さすが亮太君だね~。一度気持ちをリセットしてみてね」
亮太「はい」
私「頭の中を空っぽにして、もう一度私が楽譜に青いペンでマークしていたところだけに集中してくれる?
全部で20か所くらいあったよ。」
亮太「はい」
私「そのうちの半分でも、ステージの上で覚えていたら大したもんだと思うよ。亮太君にはそういう力があるからね!
自分の持っている強みをここで発揮してね!」
亮太「はい」
私「本番前に5分くらい練習できるけど、その時はちゃんとお母さんに『一人でやるから』って言いなさいね。
もう一度楽譜を良く見て、青のマークの確認してからステージに上がってね!先生は客席で聞いてるから」
亮太「わかりました」
小走りで歩きながら、そんな会話をして会場入りしました。
あれだけ親子喧嘩をして、イライラした後なので、私もうまく弾けないかもしれない、と覚悟を決め、欲を捨てました。
上手く立ち直れなくて崩壊したとしても、ステージに上がって演奏をしたことに対して、私だけはしっかり承認をしてあげようと思いました。
そして演奏スタート。
亮太君の出始めの音を聞いて鳥肌が立ちました。
しっかり気持ちの切り替えをしたんだなぁ。そして彼は青のマークをすべて覚えていました。
さすが亮太君でした。
もちろん欠けている部分はありましたが、今の亮太君の自己ベストの演奏でした。
演奏が終わってすぐに客席に来てくれた亮太君。
亮太「どうでしたか?」
私「素晴らしかったよ!全部覚えてたね~。本当にすごい!上手くいったと思わない?」
亮太「はい。でも夢中で弾いていたので全部弾き終わってから、本当に全部ちゃんと弾いていたのか不安になりました。
どこか飛ばしていませんでしたか?」
と興奮気味に話してくれました。
お母さんは「よかったのかどうかわからない」と心配そうにしていたので、「亮太君に感謝しましょう。たいした息子だね!」と。
結果はどうでもいい、彼が出来ることをしっかりやりきった演奏だったと私は思いました。
お母さんにはその後、ゆっくりメールを書きました。
本番前に出来る事は何か、どうしたら亮太君の目が輝くかを、まず一番に考えてね。
口を出す前に、まず頭の整理をしましょう。
お母さんが先生になっていなかったかな?
お母さんが気になるところと、本人が気になるところは違うので、本番前は本人が気になるところを練習させてあげましょう。
どうしてもお母さんの気が済まない、どうしても念を押しておきたい、という時は、きちんとその気持ちを亮太君に伝えて、言ってもいいかどうかを確認してから言いましょう。
主役は亮太君です。
そして亮太君とお母さんの優位感覚の違いも説明しました。
亮太君の強みを信じて、任せてみましょう、と私の気持ちを話しました。
私もこの母親の厄介な気持ちとずいぶん戦ってきましたから、亮太ママの気持ちがよくわかります。
母親は、出かける間際まで「ハンカチは?ティッシュは持った?忘れ物ない?」と言わずにはいられない、ちゃんと出来るのか心配で任せておけないのです。
でも、言われている本人はハンカチもティッシュも聞き流しています。
その声がけでの気づきはあまり期待できません。
毎日のようにそのセリフを聞いているので、脳が聞き流すように習慣づいているのでしょう。
それならば、どうしたら印象に残るのでしょうか?
亮太君は視覚が優れています。
私は印象に残るように太い青いペンでマークをつけました。
しかもそのマークは本番前の最後のレッスンでパッパッっとつけたものです。
「いつも」の注意ではなく「今日だけ」の特別なマークです。
本番に強く、集中力の高い亮太君だからこそ、出来たこと!
亮太君に感謝です。